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四方山話

臼井城址と二つの大きな戦い

(S.N) 古くは平安末期の1114年に、千葉氏から分家した臼井常康が印旛沼の傍に居を構え、
この地(印旛郡臼井郷)を開発したそうな。
14世紀中頃、臼井興胤(うすい おきたね)が 臼井城を現在の地に築城と伝えられているそうです。 
室町時代中期から後期の戦国時代に、臼井城は主に二つの大きな戦いを経験しました。
堅城として知られる臼井城址と関連遺跡等を訪ねてみました。

本丸からの印旛沼の眺め

当時の印旛沼は、臼井城の北側及び東側にさらに近くまで迫っていたと思われます。
対岸の師戸城(現在は印旛沼公園として整備されている)は、臼井城の支城として海運による物資供給を担っていたと考えられています。

臼井城祉入り口より直ぐ近くの二の丸。大きな広場となっています。

印旛地域では、石垣になる石が産出しないことより、石垣に取って代わって土塁が用いられています。
佐倉城も土塁を多用していますね。しかし、臼井城はほんの一部石垣の箇所があるということで確認しました。

本丸から印旛沼方向に降りていく直ぐ近くにある石垣

1479年の戦

戦国時代初期、連戦連勝で知られる上杉方の太田道灌が、臼井城を攻めた戦い。
結果的には落城するも、臼井城方は奮戦抵抗し、太田道灌側は道灌の弟(甥の説も有り)太田資忠(おおた すけただ)及び重臣多数(53名)を失う損害を被ったとされているそうです。

太田図書氏資忠(おおたずしょのすけ すけただ)の墓が三の丸と伝えられている所に有りました。
資忠はここで討ち死したと伝えられています。

太田図書氏資忠(おおたずしょのすけ すけただ)の墓

1566年の戦

戦国時代後期、「越後の龍」「軍神」と称された戦国大名上杉謙信が、後北条氏に従う千葉氏の拠点・臼井城(当時城主は原氏)を大軍で攻め寄せた戦い。
上杉方が有利で実城の際まで迫ったが、原氏側の優れた軍師の存在や武勇により城を守りきり、原氏側の勝利となりました。

謙信一夜城趾

臼井城を攻める為に上杉謙信が築いた陣城と伝わる城趾。
王子台「一夜城公園」にあり石碑が有ります。

謙信一夜城趾

臼井城祉に行く前に寄ったのですが、臼井城祉より京成臼井駅方向で、長源寺近くに「臼井田宿内跡」がありました。
入口に「宿内公園入口」の案内看板があり、急な階段道を上がって行くと思ったより広々とした公園に行き着きました。

臼井城にはこういった砦が幾つかあり、支城も複数存在し、さらに城の北から東側は印旛沼に面しており防御されていたのだと実感しました。